『かけがえのない出逢い』
〜 マラソン靴 〜
◎マラソンランナーのひたむきに走る姿は感動的だ。私の好きなスポーツの一つである。そのマラソンシューズの開発に没頭した時期がある。 日本のマラソン界では戦前から地下足袋のような「金栗たび」が使われていた。走りやすいが、必ずマメができるのが難点だった。昭和28年、まず実地見学をと別府マラソンを観戦した。ゴールで選手を待ち構え、足を調べさせてもらうと皆一様にマメがつぶれ、何とも痛々しい。 トップランナーの寺澤徹選手に「そんなにマメができたらマラソンが嫌になるでしょう」と素朴な質問をぶつけると、「いや、そうじゃない。マメを克服してこそ一流の選手」と反論する。「マメができない靴があればもっといい記録が出るはずだ」と食い下がると、「そんな靴ができたら逆立ちしてマラソンしてみせますよ」と本気にしない。 帰ってマラソンに関するいろんな文献や、履物でマメを防ぐ特許はないか調べても、あまり参考になるものはない。日本のマラソンの歴史が浅いせいだ、風呂でつくづく自分の足をながめたが、いい知恵など浮かんでくるはずがない。人間の身体はやっぱり医者が一番知っているはず、と専門家の意見を聞くことにした。軽登山靴の開発で付き合いのある神戸山岳協会の紹介で大阪大学医学部の水野洋太郎教授を訪ねた。 走るとなぜマメができるのかと聞くと、「やけどの後に水脹れができる。あれはリンパ液が外部から侵入してくる菌を食い殺したり、炎症を起こしたところを守っているせいで、それと同じ」と明快な説明。両手をパチパチ何回もたたいてみろという。熱が発生して充血する。それがもっと激しいとマメになる。 マメの原理はわかったが、それだけでは靴は作れない。次だ。社員教育でたびたびお世話になった名古屋大学の小野勝次教授に運動力学からアプローチしてもらった。「人間の体重が60キロとすると、じっと立っていれば足の裏の負荷は同じ60キロ。それが歩くと1.5倍の90キロ、走ると3倍の180キロになる」という。走ると足には体重の3倍の負荷がかかるのである。これではマメができない方がおかしい。普通、20キロででき始め、30キロになるとマメだらけになる。 いかに衝撃熱を冷やし、足の裏の炎症を軽くするか。ある日、タクシーに乗るとエンジンが過熱して動かなくなった。ラジエーターの水がなくなったらしい。それなら水で足を冷やせるようにしたら解決だ。ものは試し、と底に水を入れた靴を作ってみると重いし、ぴちゃぴちゃ音がしてふやけてしまう。原理はわかっても、応用は容易ではない。 水冷式がだめなら今度は空冷式オートバイだ。上部に目の粗い布を使い、前と横に穴をいっぱい空けて風通しをよくした。着地した時、足と中底の間にたまった熱い空気が吐き出され、足が地面から離れると冷たい空気が流れ込む。二重底で衝撃を和らげるとともに、空気を入れ替える構造で、特許を取得した。 寺澤選手に「やっとできたので試してみてくれ」とマラソンコースを実際に走ってもらった。30キロではほとんど異常はない。42.195キロ完走しても足の裏は少し赤くなった程度でとうとうマメはできなかった。信じられないという寺澤選手の表情をみて、私はマメに明け暮れた数ヶ月間を思い起こした。寺澤さんのほか、貞永信義、君原健二の両選手からも貴重な意見をうかがった。しょせん靴屋は靴屋。たかがマメといっても、靴屋ひとりでは解決できなかった。産学協同の有用性を実感したのである。
(株)アシックス 鬼塚喜八郎会長 談より
日本経済新聞 『私の履歴書O』 (1990.7掲載)